高野山お礼参り


2004年4月16日(金)

四国八十八ヶ所お遍路を結願してはや半年。桜の時期にあわせて夫と高野山へお礼参りに出ることにしました。
お礼参りの仕方は様々で、大抵の場合は車で上がるか、または大阪難波から南海鉄道で極楽橋まで行き、ケーブルとバスを乗り継ぎ高野山奥の院に参詣します。
さて私はどうしようかと考えました。やはり私も歩き遍路のはしくれです。高野山奥の院でお参りすることだけが目的でないのですから、6時間半かかるという健脚コースの町石道を歩くことにしました。しかし、休憩時間を入れると8時間にも及ぶロングコースです。ひょっとすると私はもっとかかるかもしれません。朝一番に歩き始めるために難波で前泊しました。 

インターネットで探した南海鉄道難波駅に1番近いという格安ビジネスホテルは、駅前の南海通りという商店街にあるのですが、その商店街がもの凄い。キャバクラ、パチンコ屋、バー、カラオケ屋、ファッションヘルス・・・・・何やら怪しい感じのお店が建ち並ぶ商店街をザック背負った私は、場違いなところを歩いていると感じながらホテルまで歩きました。難波の印象がいっぺんに悪いものになりました。インターネットで申し込みツインで一部屋8900円。激安です。値段が値段なのでサービスは仕方ないにしても、場所が・・・・。二度と泊まりに行くことはないと思います。
明朝6時発の電車に乗るため早々に寝ました。が、マクラが気に入らなくって、何度も寝返りをうつ羽目になりました。それなのに夫はスースー寝息。まったくついていない。

2004年4月17日(土)九度山駅から大門まで町石道

早朝6時の高野山行きの南海鉄道に乗り、紀ノ川を越え7時3分九度山駅着。降りたのは我々二人だけでした。
真田昌幸・幸村父子ゆかりの真田庵に参り、30分ほど歩くと、お大師さまの母君(玉依)が住んだことで知られている‘‘女人高野’’の慈尊院です。お大師さまが月に九度も山を降りて母親を尋ねたことから九度山とつけられたといいます。

ここは高野山の表玄関とされており、山上伽藍までの180町石の起点です。慈尊院境内から丹生官省符神社に上がる石段の途中右脇(鳥居横)に最初の180町石が建てられていました。
その昔、お大師さまが建てられたのは、木製の卒塔婆でした。現在残っているものは、鎌倉時代に建てなおされた町石(高さ約3m、五輪卒塔婆形)やその後修復されたものです。石卒塔婆の原材料(花崗岩)はお大師さまの生地讃岐(香川県)からだと案内に書かれていました。四国85番八栗寺を打つ前に石の博物館で見た庵治石ではないだろうかと思いました。

奥の院に参詣するだけが信仰ではないと、藤原道長、白河・鳥羽の両上皇、後宇多法皇をはじめ多くの人が歩いたこの町石道が、現在もなお本来の意味を失わずに残っていることは実に考えさせられます。ひとつひとつ数が減っていく貴重な町石に手を合わせながら歩きました。

60町の矢立で、高野山まで通じている国道370号に出ました。ここの茶店横のベンチで昼食をとっていると車から男性が降りてきて、みかんとヤクルトをお接待くださいました。実に久しぶりのことで嬉しかったです。この男性は、ご夫婦で四国を車遍路され、昨日結願して今からお礼参りに行くそうです。四国では、歩き遍路にたくさん会ったけれど、ここ高野山では我々が始めてだとおっしゃっていました。お互いに嬉しい出逢いでした。食事中、大門から10人ほどが歩いて降りてきました。

ここからあと2時間で大門の予定です。1時に出発しました。
お大師さまが袈裟をかけられたという‘‘袈裟掛石’’(55町)と、大師さまの母君が入山したとき雷雨から母君をかくまったという‘‘押上石’’(54町)を過ぎると先ほどの国道370号にまた出ました。
25町辺りからたくさんの橋を渡り、20町からの急坂を登りつめると、突然、朱色の大門(7町)が現れました。九度駅から21キロ8時間(参拝・休憩含)。始めと最後は急坂の登りでしたが、後は歩きやすい道でした。四国霊場の遍路ころがしに比べたら大したコースでないのに、こんなに時間がかかりました。高野山は山深い所でした。

大門をくぐるとそこは山上の宗教都市です。壇上伽藍へ行くと、実に大きく鮮やかな朱色の根本大塔が現れました。そのとき夫が指差す方に目をやると、ゆるやかに流れる屋根が実に美しい御影堂でした。根本大塔を目指していた我々は、御影堂に吸い寄せられるように近づきました。(創建は817年。その後いくたびか炎上し、現在のものは1848年再建。檜皮葺き、宝形造り)御影堂をぐるりと一周し、この品格がある優雅な御影堂がいっぺんに気に入りました。
大塔の大日如来の前で般若心経を唱え、その後、柱に描かれている十六大菩薩を眺めながらしばらく座っていました。ここは大日如来の浄土であり、ここに参ると仏と結縁できると案内に書かれています。こころが落ち着き、いつまでも居たいところです。 

5時に宿坊の三宝院に入りました。お庭の桜が満開で、立派なお寺です。宿泊客はほかに2名。この大きなお寺に4名の宿泊客でさみしい夜でした。部屋にはテレビもなく、お部屋で精進料理の夕食を頂いたら寝るしかありません。寒い夜でした。8時過ぎには休みました。

2004年4月18日(日)奥の院

6時に朝のお勤めに参加。本堂には、大きなストーブが焚いてありました。真摯な気持でお参りするのですが、日頃座りなれていない私は、足がしびれてそれどころでありませんでした。長い長いお経もやっと終わり、楽しみにしていたお説教と思ったら、よくお参りくださいました・・・でおしまい。それはないでしょうご住職。ちょっとがっかりでした。
朝食もお膳で部屋に運ばれ、夫と向かい合って食べました。おかずの‘‘ひりょうず’’がとてもおいしい。日常にはない不思議な時間がゆっくり流れていきました。

今日は奥の院参詣。お天気は最高によろしい。桜は満開。桜舞い散る様に目を洗われ、五感がフル回転している自分に気づきます。昨日から一切の乗り物を断ち、歩くことに徹して、ここ名僧たちの生活の場に身をおくと、日頃の生活の中で知らず知らずのうちに身に付けてしまった罪・けがれ・こころの贅肉が洗い流されていくような気がします。四国でも感じたことですが、やっぱり人間の基本である‘‘歩く’’ということは思いがけぬ効果があるのです。先を急ぐでもなく、ゆっくり流れる時間を心地よいと感じながら、奥の院一の橋を渡りました。

奥の院に足を踏み入れると、ほの暗い静寂の世界です。ずっとまっすぐ続く石畳の参道脇には、苔むした五輪塔、歴史上人物のおびただしい供養塔、今なお生き続ける老杉、その中をゆっくりゆっくり歩きました。参詣者はほとんどおらず、まさに冥界に迷い込んだかのようです。死ぬときは、きっとこんな道をずっと歩いていくのかもしれないと思いました。
中の橋を過ぎ、御廟の橋に近づくと参詣者が多くなり、なつかしい四国お遍路さんを見かけるようになりました。
厳粛な気持で御廟の橋を渡り、杉の巨木が立ち並ぶ参道の突き当たりが燈籠堂。納骨の方が多くおられました。今なお生き続けているといわれている弘法大師のお膝もとに眠ると極楽往生できると信じられているのです。
さぁ、私もいよいよお大師さまのお膝もとへと進みます。燈籠堂の裏へまわると、さらなる静寂の聖地‘‘弘法大師御廟’’です。もの凄いお線香の煙でした。額づきお参りされている方も。あぁ、ここまで私はできないなぁと思いました。
丁寧に般若心経を唱え、無事お四国参りをさせてもらえたことをお礼申し上げました。‘‘どうでしたか?’’とお大師さまがおっしゃっているような気がしました。お遍路中随分助けてもらったこと、結願させてもらえたことをただただ感謝するのみでした。
これで納経帳も全部埋まりました。休憩所で夫がご苦労さんと言ってくれたとき、お遍路の奥深さを改めて感じました。夫はヤレヤレと思ったことでしょう。

菅笠を被っている私に、町行く僧侶は一礼してくださり、私も手を合わせました。何かいい気分です。お大師さまの菅笠のお陰です。南無大師遍照金剛

女人堂までぶらぶら歩き、ここから先はバスか徒歩で極楽橋までの山道です。どうしようか迷っていたら、丁度バスが到着。バスに乗って高野山駅まで行き、ケーブルで極楽橋まで降り、南海鉄道で難波に出ました。難波の雑踏の中に仕方なく身を紛れ込ませ、ため息ひとつ。高野山の余韻も消えていきました。

汗ばむほどのお天気で、夫とお礼参りができたこと、実にいい旅でした。
またいつの日か、お遍路のお礼参りに出かけられる日が来ることを願ってやみません。




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