2003年10月10日〜17日 65〜88〜1番 254km


10/10(金)初日(通算34日目)伊予西条駅から 延命寺35`

7回目になる区切り打ちの今回は、結願に向けての秋遍路です。7時半伊予西条駅を降り立った私は、はやるこころを抑えようと、石鎚山の方を向いて大きく深呼吸しました。気負うことない、歩けるところまで歩かせてもらおう・・・そう思いました。
実は今回、何だか今までのような元気がなく、いささか弱気なのです。今夏の天候不順のせいなのか、加齢からなのか、ずっと体調がすっきりしません。びっくりするほど老眼が進み、疲れやすい上に肝心の地図が読みづらい。まったくなさけない、悲しいことなのですが、落ち込んでいるわけにはいきません。なかなか手強い‘更年期障害?’というヤツを何とか巻いて、頃合いを見計らって四国に来たのでした。
実に爽やかな秋晴れです。遠くの山なみが、青空が、爽やかに吹く風が、「また歩きに来たね」と優しく歓迎してくれます。心配していた地図も裸眼でも大丈夫。この先どうしようもなく足が痛くなり孤独感と戦うことになりますが、「快」と「楽」だけの今は、足の裏も機嫌がいいのです。こうして大自然に溶け込んでいく心地よさを感じながら、だんだんお遍路のこころになっていきました。 
今日は、別格がひとつありますが札所はなく、国道11号に平行した旧道を通りながら東へ35km、伊予三島まで歩きます。
早速オートバイが私の傍らに止まりました。日本人と思えない男性がコンビニの袋を差し出します。ためらいながら受け取ると、合掌しながら「ガンバッテクダサイ」と短く言い、あっという間に行ってしまいました。自分用に買った物を下さったのか、それとも私のために買って下さったのか、いずれにしても頭が下がる思いです。結願寺までどうしても歩き通したいという私を応援して下さる気持がその短い言葉から伝わり、暖かいこころに打たれました。
今は無きいざり松が有名だった番外延命寺で食事をとりました。お接待で頂いたハンバーガーとお茶です。お接待下さった美容室のおばちゃんは、私ぐらいの娘がいるといっていました。きっと疲れた顔をして歩いている私と娘さんがだぶって見えたのでしょう。別れ際には、「頑張りなさいよ」って私を抱いてくれました。そして歩き出して間もなくのことです。「気をつけて行くんだよー」と背中越しに聞こえ、私はお四国のお母さんに大きく手を振りました。こんなにも私のことを心配してくれる人が四国にいたのです。忘れられない一期一会でした。
また、御殿のような家に住むお母さんにも出逢いました。「金婚式の記念に大屋根にもうひとつ屋根を造ったんですよ」。屋根を見つめるお母さんの目は遠い昔を思い出しているようでした。別れ際には蜜柑と柿をそれはどっさり持たせて下さり、ザックもこころもパンパンではちきれんばかりでした。蜜柑は道中の口を潤おしてくれ、柿は宿で剥いて雲辺寺の降りまで持ち歩きました。空腹感を満たしてくれどれだけありがたかったかはいうまでもありません。
こうして私のこころはどんどん充電されていきました。見ず知らずの私を心から励まして下さるそのお気持は何にも換え難いものです。苦しくても歩く力となることを何とか伝えたいのですが上手く言えず、ただありがとうと笑って答えるだけの自分をもどかしく感じたりもしました。
5時頃、三島郵便局前にある宿に到着しました。欲張って歩きすぎたので疲れましたが、初日からたくさんのお接待は心温まるものでした。感謝いたします。合掌。

10/11日(土)2日目(35日目)ろんどん荘旅館発65番21`

今日は65番三角寺を打ち、雲辺寺の麓の宿まで21km歩きます。今朝は8時の出発。ゆっくりです。
路地の随所にあるお地蔵さんに導かれながら、次第に山に向かっていきます。足がなかなか前に出ないほどの急坂です。ふーふー登る私の脇を山からの恵みの水が勢いよくごーごー流れていきます。家族総出で稲刈りをする光景に足が止まりました。お米を食べる日本人であるからには、一度は米作りに携わりたいと思っているのですが残念ながら私にはその機会がありません。・・・いったい私は、自分が、または家族が、いやもっと広げてもいい、知人が作った農作物を、今日までどれだけ食したのでしょう。買ったものばかりで生きてきた自分に気付き、こころさびしくなりました。家族総出で稲刈りをしたご飯は、きっとおいしいのだろうなぁと思うと、私はすごく損しているような気になりました。自給自足は無理としても少しでも自分で作ったものを食する生活がしたい・・と、そんなことを遍路中よく考えました。
2時間かかって65番三角寺に到着。急な階段(写真)を上がると仁王門に梵鐘が吊るされていました。遍路の数だけ鐘の音が響くのでしょう。私も鐘を打って境内に入りました。こじんまりとした明るい境内は、団体さんがいなくてとても静かでした。
これで「菩提の道場」を打ち終え、「涅槃の道場」へと進みます。三角寺口までの転がりそうな舗装道を下ってから、びっくりするほどの毛虫の長い行列に出逢いました。踏みつけないようにぴょんぴょん歩くと、中には車に引かれたものがあります。それでもこの道を行かなければならなかった毛虫の人生を垣間見た感じがしました。
高知自動車道をくぐり、坂道を降って椿堂に到着。工事中でブルーシートが掛けられていますが、朱色の山門が鮮やかです。「弘法大師お杖の椿」という石碑の脇にある大師像は「おさわり大師」といって、自分の悪いところと同じところをさわれば、それを癒してくれるということです。私は左背中がずっと痛く困っていたので、お大師様の背中をさすりました。
ここからは、難行苦行の国道の峠越えでした。先ほどまでかけ連れた男性遍路は、かなりのスピードで登って行きます。どんどん離されていき、後姿をうらやましく見つめました。しかし暑い。登坂斜線では荷の重いトラックも苦戦しています。我慢できず自販機で冷たいコーヒーを飲みました。
ようやく国道を登りつめたら今度は恐怖の境目トンネル(855m)です。タオルを口に当て、オレンジ色に光る無気味な穴に入っていきました。こんなに車の往来が激しかったかしらと思うほど、もの凄い音です。どんどん近づいてくるトラックの爆音がコンクリート壁に反響して思わず足がすくみます。ピユーンピユーンピユーン・・・と私の脇を猛烈な風圧と共に通過するまで、菅笠を押さえ壁に張り付き怯えながら待つのです。南無大師遍照金剛です。命が縮まる思いの現代の遍路泣かせです。トンネルから脱出したときは、もうへろへろでぐったりでした。トンネルを出たところにあったコンビニの休憩所でずいぶん休ませてもらいました。
いつまでも休んでいるわけにはいきません。気を取り直し男性遍路のあとについて歩き始めました。15分ほど歩いたでしょうか。旧道に入り、ほどなく宿に到着。宿のご主人が表に出てニコニコと待ってくださっていました。
歩き遍路は6人。宿のご主人がお父さんで大家族のように食卓を囲み、わいわいと楽しい夕飯でした。明日の雲辺寺の登りは、ちょっとお天気が心配です。

10/12(日)3日目(通算36日目)民宿岡田発 66〜70番30`

今にも雨が降り出しそうなどんよりとした空です。6時20分、同宿だった71歳の男性に同行させてもらいます。「しっかり歩いて行きなさいよ、またおいで」と宿のご主人が見送ってくれました。私はここを発つのが心残りなほど、「またおいで」という声に温かみを感じました。
この71歳男性遍路さん(写真左)は、3年前に結願してから脳梗塞を患ったそうです。一時はもうだめだと思ったときもあったけれど、もう一度お遍路に出たい一心でリハビリに励まれたといいます。健康体でも大変な歩き遍路です。2巡目をここまで歩かれた姿に頭が下がる思いでした。「だからね、岡田(宿)のご主人に再会できて本当に嬉しかったんですよ」と言うこの男性の言葉には、胸にぐっと来るものがありました。
小雨が降る中、8時に66番雲辺寺に到着(写真)。なんと2時間かからず登ってしまいました。大病をされた方が、です。お大師さまの存在を思いました。到着したときの暗い境内が、驚くほどあっという間に明るい境内に変わり、早く登れた分ゆっくりしました。

下山したときにはすっかり晴れていました。親子遍路に間違われながらも、稲穂が風にゆれるのどかな田園地帯の中を、ずっとお地蔵さんに導かれ歩きました。立派な金剛力士像がある67番大興寺に到着したのは丁度お昼だったので、参拝後、木陰で岡田さんのお接待のおにぎりを頂きました。お遍路中は何を食べてもおいしいのですが、このおにぎりは格別でした。
ここから先、私は70番本山寺を先に打つ計画なので、国道377号に出たところで71歳の男性と別れました。ひょっとして68・69番あたりで再会できるかもしれないけれど、無理かもしれないと思うと、何かさみしいものを感じる別れでした。‘‘会うは別れの始め’’・・・うーん、まったくその通りなのですが・・・・。

日差しが強い中、ひとり財田川の右岸をひたすら歩きました。歩いても歩いても目標の五重の塔が見えず、あまりにもゆっくり流れるこのひとりでの時間に苦しみ、弱音を吐きました。やっとのことで70番を参り、今晩お世話になる70番前の宿に着いたのは3時。荷物を置かせてもらい、身軽で68番神恵院へ向かいました。
69番観音寺のお参りがすんだときです。誰かが私の背中をとんとんと合図します。振り向くと、あの穏やかなまなざしの71歳の遍路さんでした。たった数時間前まで一緒だったのに、こんなに再会が嬉しいものだと思いませんでした。このとき、私はこの男性に今は亡き父の姿を追い求めていたことに気づき、出逢わせてくれたお大師さまを思いました。ただただこの男性の無事の結願を祈りました。
途中で出逢った地元の方に琴弾公園の展望台まで案内してもらい、砂浜に作られた巨大な銭形を見下ろしてきました。さすが聞きしに勝る景色です。銭形に降りてみませんかといわれ、予定外でしたが案内してもらいました。国立公園観音寺松原に降り立ち、直径100m程ある「寛永通宝」の前に立ってみると、字の深さが思いのほかあって、これを一夜にして堀りあげたという言い伝えに驚くばかりでした。
宿に戻ったら6時でした。‘‘秋の日は釣瓶落とし’’・・・遊びすぎたと反省しました。夕食後、地元のお祭りの山車が宿前を通り喜んでいたのですが、9時過ぎても盛り上がっているので終いには眠れなくて困りました。
今日は出逢い・再会の嬉しさと、別れのさみしさについて考えさせられた日でした。

10/13(月)4日目(37日目)一富士旅館発 71〜77番 33`

夜中に降った雨がまだぱらぱらしている中、今日の道中安全をお願して6:40本山寺を後にしました。今日は7ヶ寺を巡って、丸亀まで33qを歩きます。
ずっと信号ごとに立っている警察官と元気な挨拶を交わしながら早朝の国道11号を71番弥谷寺に向かって歩くこと2時間。もうそろそろ・・・と、きょろきょろするとちゃんとへんろ道に入る道しるべがあります。こんなときはもう最高に嬉しいときです。ありがとうと道しるべに声を掛けへんろ道に入ると、国道歩きでの緊張感が一気に緩むのを感じます。
やみそうでやまない雨に「もう上がるよ、弥谷さんはあそこ、遠いよ、気いつけてな」と家の前を掃除していたおじいさんは手を休めて、弥谷寺を教えてくれました。
遍路石に導かれ急な坂道を登っていきます。苔むしたお地蔵様にひとつひとつ手を合わせながら暗い山道を登っていくと駐車場に出ました。「雨の中よう頑張って歩いて来たなー」とお掃除しているおじさんが出迎えてくれ、「ここを上がって左へもう少しあるからね、次(72番)へは、降りてきたら真っすぐ、ここからは右だからね」とあっちこっちと指差しながら丁寧に教えてくださいます。こうして何人もの歩き遍路を励まして下さっているのでしょう。拝みたくなるようなお方でした。
短冊が天井からいっぱい吊るされた古めかしい俳句茶屋の前を通り、本堂まで、それはそれは長い石段をぐるぐる登りました。途中の岩壁には、高さ1m程の阿弥陀三尊像が刻まれた磨崖仏があり、その脇には南無阿弥陀仏と刻まれています。見上げるとかつて遺骨をおさめたという穴がたくさんあり、手を合わせながらひとつひとつを目で追いました。さらに石段を登りようやく本堂に出られました。急な階段を下りていく途中で会った団体さんは、みんな口々にまだかまだかとぶつぶつ言いながら、持っている傘をよけては上を見上げていました。それほど石段だらけの境内でした。大師堂内にあった弘法大師が少年のころ勉強したという岩窟が興味深く、しばらく眺めていました。
うっそうとする竹林の中を抜け、高松自動車道をくぐり、池のほとりを歩くころには雨も上がり空が明るくなり、やれやれとばかりに俳句茶屋で買った無花果をお地蔵さんと分け合って食べていると、遠くに幼いころの弘法大師が死を決意して身を投げたという伝説の捨身ガ嶽禅定の断崖の行場が見えました。岡田のご主人にいわれた様にここから遥拝しました。
72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺を続けて打ち、弘法大師の遊び場だったという74番甲山寺、そして生誕の地といわれている75番善通寺へと徐々に街中に出ていきました。
前を行く歩き遍路はご夫婦でしょうか。(写真)何とも微笑ましいお揃いのザックカバーの赤は、門前のかたパンの看板のほうに行った後、善通寺の境内に消えていきました。さすが四国一を誇るだけあって大きいお寺です。どちらが本堂か大師堂か尋ねても知らない方ばかりでうろうろしました。
善通寺を出てからは、気が遠くなるほどの長い商店街を歩きました。76番金倉寺を打ち、善根宿の「まんだら」に立ち寄り、77番道隆寺を打ち終えた時は4時をまわっていました。肌寒いなかひとりとぼとぼ丸亀まで歩き、やっと宿まで来たら、電線には不気味な声で鳴くムクドリの大群で真っ黒。疲れがどっと出ました。
9階の部屋から見えた丸亀城はライトアップされ奇麗でした。明日も雨とか。少しでも早く発ちたいので、片付けもそこそこに寝ました。

10/14(火)5日目(38日目)丸亀プラザH発 78〜82番 35`

目が覚めたらなんと6時少し過ぎ。びっくりして飛び起きました。急いでザックに荷物を詰め込み、昨日買っておいたおにぎりを食べ出発しました。
78番郷照寺に着いたときは予定より30分も遅れています。門前の餅屋は情報通りいいお店だったけれど、これ以上遅くなるわけにはいきません。ぐっと我慢して79番高照院に向かいました。寝坊しなければ食べることができたのにと歩きながら悔やみました。

まだシャッターがおりている坂出の商店街を歩いていると、小道から男性遍路が現れました。3時までに白峰寺に着くかなぁと言います。えっ、私はその先の根香寺を3時には出て2時間ほど降った宿まで行こうと思っているのに・・・・。この男性と歩いていたらダメです。では・・・と、私は一気に加速しました。
79番を打ち80番国分寺に向かいます。80番へは、線路を渡らず旧国道を歩くようにと遍路地図には書かれています。遍路シールもないし不安になりましたが、忠実に線路を渡らず行ったら、へんろみち保存協会の道しるべがありほっとしました。この道しるべに限らず遍路シール、遍路石、丁石、お地蔵さん等々は本当にありがたい存在です。ただ黙ってそこに在るだけなのに、ここに歩いてくるまで、どれほど助けられ励まされたことでしょうか。そして出会うと途端に元気になるので不思議です。
仁王門の松の木が立派な80番国分寺に到着。境内にもたくさんの松が植えられ庭園になっています。ここで会った団体さんは、私をどこかのお寺で見たといいます。本当にずっと歩いていると説明しても、「山ん中はおなごひとりでは歩けまい、電車やバスを使わんと」と信用してもらえませんでした。おじいさんの時代の女性は一人で遍路に出るなんてことはなかったのでしょう。たくましくなった今のおなごの私は勇気を出して、雨の中この先のへんろころがしを登っていきました。
雨具をつけての登りは暑くてたまりません。樹林帯に入ったところで上だけ脱ぎました。さすがにへんろころがしです。100歩登っては休憩100歩登っては休憩・・・。しかし段差が大きいところは100まで持ちません。70で休憩してしまったり逆に120も歩けたり、そうやってだましだまし歩き、ようやく一本松の車道に出られました。
この先、また雨具を着て不気味なほど静かな車道を歩きます。時々こっちが本当の遍路道だと言わんばかりの道しるべが立っています。今日ばかりは嫌だと思うのですが、ひょっとして白峰寺に通じているかも知れないと思うと不安になり忠実に道しるべに従うのでした。そんなことを2度ほどして山道に入っていきました。山ん中をおなごひとりでは歩けまい・・・といったおじいさん、さっきは強がったけれど、もう怖くて怖くてたまりません。ヘビが出てきたらどうしよう。南無大師遍照金剛・・・・白峰寺までそれはそれは大きな声で唱え続けました。
81番参拝後、納経所の軒先を借りて玄米パンで空腹をしのぎ、1:50またさみしい雨の中、南無大師遍照金剛を唱えながら来た道(写真)を82番に向かいました。雨具のポケットから出釈迦寺の門前で買ったぶどうをひとつずつ出しては口に入れ、こころの栄養剤にしました。19丁ではもう土砂降りです。寒くてもう泣きそうでした。だんだん少なくなっていくぶどうを大事に大事に食べながら丁石を減らしていき、やっと2丁になったとき最後のぶどうをお地蔵さまに差し上げました。3:20ふらふらになりながら82番根香寺の山門をくぐり、本堂に向かって静かな階段を降っていきました。
5時半、鬼無にある宿にずぶぬれになって到着。満艦飾のなかで寝ました。

10/15(水)6日目(39日目)旅館百々屋発 83〜84番 29`

昨日とは打って変わって爽やかな朝です。何度も何度も振り返っては、昨日泣きそうで縦走した五色台の稜線を目で追いました。今日は85番八栗寺まで29kmを歩きます。
83番一宮寺まで、いくつものお地蔵さんと遍路シールに導かれながら、いったい何回角を曲がったでしょうか。川を渡り右折、国道を横切り左折、商店街を右折、神社を右折・・・ジグザグジグザグと終いには用水路の横を通ったりしながら歩きました。これはもうお遍路の高度なレベルです。
一宮寺参拝後、男性の野宿遍路(Tさん)に出逢い、この先、交通量の多い高松市内をふたり繋がって歩きました。遍路地図では真っ直ぐな道のようですが、栗林公園を過ぎたあたりからは道が複雑に何差路もあるうえに線路も複雑です。私たちはきょろきょろと遍路シールを探すのに必死でした。私ひとりだったら、高松市内のこの迷路から抜け出せなかったかもしれないと思いました。
きっとあれが屋島寺だと言いながら、日差しが強いなか国道11号を歩いていきました。ひとりでは入りにくかった讃岐うどんセルフ店にTさんのお陰で入ることができ大満足でした。さすが本場の讃岐うどんです。もちろんおいしかったです。

傾斜角度21度という看板を横目に、整備されたキツイ道をひたすら登って84番屋島寺に到着。驚くほどすっきりした広い境内でした。もっと観光客や団体遍路さんがいるのかと想像していたのですが、参拝客が少なく、いつまでも居たくなるような爽やかな風が吹きわたるお寺でした。
武者たちの刀を洗ったという「血の池」の横を通って、今は廃墟となったホテルの方へ出ると、源平の古戦場が一望できる絶景ポイントでした。人は全くいなくてTさんとふたりじめでした。今から向かう85番八栗寺がある五剣山と対峙しながら、しばらく景色を見入っていました。本来なら85番へは今来た道を打ち戻るので、こちらには来ないはずでしたが、門前で100円お接待くださったおじいさんが、旧遍路道があると教えて下さったので見られた景色です。100円以上のお接待にふたりは喜びました。
旧遍路道は、転がりそうな急坂の連続でしたが、あっという間に州崎寺に出られ、随分ショートカットできました。源平の屋島の合戦に由来する遺跡がいたるところにある住宅地を抜け五剣山に向かいました。途中、牟礼町の恕庵文庫では、それは美しい方のお点前でお抹茶を2服も頂くという贅沢な時間を持つことができました。

3時半とまだ早かったので、石の民族資料館に寄りました。庵治石とよばれる良質の花崗岩を、墓石、石灯籠などに加工する様子が見学でき、石は山の神様の恵みであることを感じました。前の広場からは、今来た屋島寺がある台形の美しい山が眺められ、今日はいい日だと何度も思いました。人は僅かしかいなかったけれど、素晴らしい施設でした。
ケーブルカー乗り場横の鳥居をくぐり、暗い急坂を登りつめ、4時半に85番前の宿に到着しました。宿の女将さんの話しでは、朝7時前でも納経していただけるということなので、宿に入ることにしました。野宿の予定だったTさんも、なぜかこの宿に泊まることにされたのでお客はふたりになりました。古い宿ですが、お掃除が行き届いており◎、夕食も◎。私の部屋からは、屋島寺から見た五剣山の峰(写真)に手が届くよう、まるで五剣山にすっぽり抱かれているようです。時折、お寺の鐘の音が聞こえてくる静かな宿が気に入りました。ここまで歩いてきた自分へのご褒美のような気がしました。寒い夜でしたが、ふかふかの暖かいお布団で、今回初めてすっと眠りにつくことができました。

10/16(木)7日目(40日目)岡田屋旅館発 85〜結願 30`

「無事結願して下さいね」と封筒に入ったお接待1000円を女将さんから手渡され、これほどまでに結願を見守って下さるお気持に目頭が熱くなりました。
早朝の八栗寺の境内は、結願に相応しく冷たい空気がぴーんと張り詰めています。どのあたりからだったかは忘れてしまったけれど、お寺ではお願い事はしなくなり「ここまで歩かせていただき、ありがとうございました」と感謝しているだけの自分になっていました。それほどお寺に到着するまでの道のりには私を助けてくれる出逢いというご縁がたくさんあったのでした。そんなことを昨日から一緒に歩いているTさんと話していたら、7時半になっていることに気づき、慌てて五剣山を降っていきました。
平賀源内のお墓がある86番志度寺を打ち、87番長尾寺に着いたのは11時でした。広々としていて開放感がある境内に吹きわたる風は気持のいいものでした。境内の茶店で、結願を済ませバスで降りてきたと言う野宿の老人男性に出逢いました。またこれから冬遍路に出ると、欠けた歯の笑顔で言いながらビールで祝杯を上げていました。このおじいさんに出逢えたことやここで食べたかき揚げうどんがおいしかったことが忘れられない思い出になっています。Tさんと私は丁度12時のサイレンに送り出されるように、結願寺に向かって歩き出しました。
前山ダムに着き、予定していなかったけれどネーミングが気に入ったのでお遍路交流サロンに立ち寄りました。そこで不思議な出逢いがありました。なんとサンティアゴ巡礼の掲示があったのです。ひそかにサンティアゴ巡礼を夢みている私は、まことに勝手な解釈ですが「次のあなたの夢はこれでしたね」とお大師さまがおっしゃているような気になりました。それにはとりあえず四国遍路を結願しなければと、1時40分クライマックスに向かいました。Tさんはもう少しゆっくりしていくと言われたので私はひとり先に発ちました。
ダム湖が切れた先で北側の遍路道と合流し、農作業をしていた方から「今からでは、はよう行かんと暗うなるで・・」と心配されたので山道を急ぎました。譲波では猿がたくさんいて、ひとり先に来たことを悔やみました。途中、山からの恵みの水がごーごー湧いており、顔を洗い、飲めるかどうかわからなかったのですがゴクゴク飲んでしまいました。
3時丁度、女体山越え登り口にまだTさんは来ません。しばらくすると遠くからチリーンチリーンと聞きなれた音が。ほっとしましたが、30歳の彼は凄い勢いで私を追い越していったので、あっという間にまた私はひとりになってしまいました。しかし、そんなに離れていないという安心感で充分でした。
女体と言うもののなかなかの山です。何度目かに休憩したところから、昨日登った屋島や五剣山が見えたとき、よくここまで歩いてきたものだと感無量でした。まだお遍路を終わりたくないと必死に抵抗するかのように、最後の登りの岩場では、この女体山に吹く風をご馳走に、長い間じっと目を閉じ、大自然とひとつになっていました。私の魂は上手く風に乗り、お四国の空を自由に飛び回っていました。
頂上に着くとTさんが待っていてくれました。そこからふたりは南斜面を随分降り、4時半とうとう88番大窪寺に降り立ってしまいました。達成感より楽しいことも苦しいことも、やはり終わりがあるのだと寂しい思いでした。
記念に御影帳を買って門前の宿に入りました。歩き遍路4人は、それぞれの思いで、宿が用意して下さった赤飯で結願を祝いました。真っ暗な空に星が奇麗に輝く寒い夜でした。

10/17(金)8日目(通算41日目)民宿八十窪発10〜1番41` 

ここまでの道のりは決して容易いものではなかったけれど、助けられながら、指南通り一歩一歩足を前に出せば歩き通せるものだと思いました。そんなお四国という仕掛けの中を歩かせて頂いたのだと思います。何かを感じ、何かを考えるという問いかけが路上にはいっぱいあり、私にはとても興味深いものでした。
しかし、この旅も残念ながら終わってしまいました。この先の人生に、指南がないことに不安を感じますが、よーく見れば遍路シールのようなものがあるような気がします。千数百キロも道しるべを見つけながら歩いたのですから、見つけ方は上手くなっています。この先きっと役に立つような気がします。
今日は、無事結願のお礼参りに、打ち始めの1番霊山寺まで41km歩きます。同宿の遍路さんたちと10番に向かって車道を降って行きました。時に木陰で休憩し、時に寄り道しながら、遠くに焼山寺の山が見えてきたときは、感慨にふけました。
そこから10番切幡寺までは、じれったいほど遠く感じました。それほど自分で歩いた道を円にしたかったのと、発心したころの思い出を味わいたかったのです。しかし到着してみると、だれともなく話す思い出ばなしには、終わってしまったさみしさは隠せません。ひとりは、ここからタクシーで徳島へ、ひとりは(Tさん)11番へ、私は1番に向かいます。同じ道を歩いた同志は、ここでばらばらになり、それぞれの道を歩き始めました。
ここからは、1年半前に歩いたなつかしい道です。遠くに熊谷寺や大日寺を見た時には、発心したときのことがどんどん思い出されていきました。今日と違って、あの日は雨で難儀してここを歩きました。あまりの大変さにどうして遍路なんかに出たのか悔やんだような気がします。今こうして戻ってこれてよかった、諦めなくてよかったと思いました。
真っ白な白衣で心細げに歩いていらっしゃる遍路さんとすれちがいました。きっと私もあんなふうに、いやあの日は雨だったから、もっと険しい顔をして歩いていたでしょう。札所を探しあてることに必死だったので、ひとりのお礼参りの方しか覚えていません。とにかく本当にあのときは必死でした。
ここまで来てただひとつ残念なことは、遍路に出てはじめて泊まった8番札所前の宿の看板が下ろされていたことです。何とも残念でした。焼山寺へ行く途中の柳水庵も今は閉めているとか。
札所は遥拝で済ませましたが、6番安楽寺と3番金泉寺はお手洗いをお借りしたので、山門をくぐりました。なつかしい境内にはその当時の私が居そうな気がしてなりませんでした。
10時間かかってようやく1番札所霊山寺に到着しました。生憎、工事中でシートがかけられ、思い出も何もありません。境内に入って驚いたことは、池があったのだということです。境内も工事中で何もかも思い出せません。しかし本堂に進み、足を踏み入れたとき、ここだったと。お遍路の右も左もわからなかった私は、まずここで手を合わせたのでした。そして今、無事に戻ってこられたことに長く長く手を合わせました。そしてその横の部屋に入り、発心した日に名前を記入したノートから私の名前を探し出し、結願日15年10月16日と赤ペンで記入しました。これで私の遍路は本当に終わりました。
私の横には、私と入れ替わりに大きなザックの野宿遍路の男性が遍路用品を買い求めていました。その男性に、たくさんの出逢いを、とこころから思いました。きっと当時、私もどなたかにそう思っていただいたに違いありません。
シートがかけてある山門前で、お遍路をさせてもらった感謝の気持をこめて最後の手を合わせました。合掌




前のページへ
戻る
トップページへ
トップ
次のページへ
次へ