平成27年1月18日(日) 最終日
7:00 レストランにて朝食。和・洋が選べるので洋のパン食にしてみる。
朝食後、部屋に戻りテラスから朝焼けを眺めていたら、この入江に小舟が入ってくるのが見えた。その舟からの景色はどんなだろう?リアス式海岸なのでいい漁場に違いないことだけしか私にはわからない。
7:45 ベルリーフ大月をチェックアウト(2食付き8100円)。遍路道から外れているけどいい宿だった。
昨日区切った赤泊まで送ってもらう。
10分ほどで昨日区切った赤泊に着く。昨日の夕陽に続き、朝の景色も美しい。静かな浜に2度も立つことができて大満足。
ここ宿毛湾は「いせえび・あわび・とこぶし」が採れるので密猟禁止とある。
この美しい景色の中には、高級食材がわっさわっさ[E:dollar][E:dollar][E:dollar]・・・?
もうここに来ることはないと思うので、去りがたい景色となった。
さぁ~今日は海抜0mから元気に歩きます。
しかし寒い。ブロッコリー?の葉っぱには霜がびっしり。人家もない寒~い畑の中をうねうね上って行く。
赤泊の浜から歩くこと20分ほどで神社が。案内板には「壇ノ浦の戦いで敗れた平家が落ちのび、この地に居を構えた」とある。この辺鄙な場所がうってつけだったことは、ここまで歩いてきたのでよくわかった。
秋には大祭があって、真剣を使った神踊り八つの演目が奉納されるらしい。「隠れ里」の白洲正子が好みそうなところだ。
さらに歩くと、突然頭の上からワンワン吠えまくられた。お遍路さんだよと言っても噛みつかんばかりに吠え続ける。よぉ~し!それならその顔を撮ってやるよ!とカメラを向けたら急におとなしくなった。
この犬のお宅前で「元善根宿 西田家」という石碑を見つけた。善根宿 西田家??以前テレビで、江戸時代の古い遍路札を俵に入れ屋根裏に上げてある・・・というのを見たことがあるけれど、まさかその家?
「お遍路さん!ここ必見だよ!」とワンワン吠えて足止めしてくれなかったら、素通りしていたかも。「エライなぁ君は!吠えまくった(言いたかった)意味がわかったよ。」と礼を言う。
[E:book]遍路新聞より抜粋
この道沿いにはかつての善根宿・西田家がある。西田家には米俵に入れられた古い遍路札が残されている。大月町史に掲載された遍路札の調査結果によると、文政8年(1825)から明治43年(1910)までの約一万枚。地域別に見るとやはり四国が多く、次いで岡山、兵庫、大阪、京都、愛知、大分分布は北海道、青森から鹿児島まで全国の各県に及ぶ。
当時、お札を集めていれば火事災難から逃げられると言われていた。 またこの地方では「千人の巡拝者を泊めると、一回の巡拝をしたと同じご利益がある」とされていたようだ。通常、遍路札は米俵に入れ屋根裏で保存されたようだが、何度かの雨漏りにもあったようで米俵は黒く変色し、札はくっつきあい団子状態になり、三分の近くは判読不能だったという。
この付近にも遍路石が点在し、さらに321号線を北上した亀尾地区にやはり旧善根宿の松田家がある。松田家にも遍路札や千人宿帳が保存されている。
西田忠雄さんは「今この道を通るお遍路さんはほとんどいない。私が見かけるのは年に数人程度。
見かけたらお接待しています。お札は糸を通して部屋の四方に吊るし、お守りにしていたこともあったようです」と話している
倒れて矢印がわかりにくい道標。 この辺りまで来ると日がさし、いくぶんか暖かくなる。
赤泊の浜から1時間15分、ようやく国道321線(写真突き当りの道)の姫ノ井に出る。本当は昨日ここまで歩くつもりだった(実際は赤泊まで)。このあたりにはまったく宿がないので、送迎を頼める宿は歩き遍路としてはありがたい。
実は、ここまでの登り坂で左足のすねに違和感があり思うように歩けなかった。この永遠と続くような味気ない国道に出た途端、もう歩きたくないと足がわがままを言い出す。
しかし、1日に数本のバスはもう午前中はないので歩くしかない。何度も休憩しながら歩いた。
良心市の2本入りの大根が100円の安さに驚いたり・・・・足の痛みをだましだまし1時間ほど歩いた。車もほとんど通らない国道321号だった。
(すねの痛みを帰宅後調べたら「シンスプリント」という症状に似ていた)
そんなとき1台の車が止まった。正直なところ「車に乗りませんか?」を少し期待したけれど、幸か不幸かジヨーキョーソードリンクのお接待だけだった。悩む手間が省けたと強がる。歩き遍路の意地というものかな?
その車を見送ったとき目に入った看板には「道の駅大月まで1㎞」とあった。あともう少しだよと足をなだめてやる。
やっとのことで道の駅大月のヘンロ小屋に着く。歩き遍路にとって道の駅やヘンロ小屋やコンビニは貴重な存在。土佐清水以来のオアシスにほっとする。
姫ノ井からここまでの4.5㎞に1時間半もかかっている。宿毛まで無理と感じながらも自分に課したここまで頑張って歩いてきた。 自分を解放する場所として、ここが最適と判断し、区切ることにした。
そう決めたらあとは観光。道の駅を物色する。左160円 右250円で仕入れたお弁当。品ぞろえが豊富でこの地域のスーパーのようだった。
お土産を買ったレジ横にあったコレ↑ 次回計画の参考にするつもりでもらう。
12:07発宿毛行きのバス[E:bus]が来るまで、今回の行程が凝縮されたこの看板を眺めて待つ。最後の歩きはいささか苦しんだけど、楽しかった感慨にふけるにはいい地図だった。
2009年10月立山室堂から称名滝縦走のとき、ここ幡多から車で来たゴージャスにも劔・三山・大日をやったというパーティに出逢ったことを思い出したりもした。彼らは幡多のどこなんだろう?今ならもう少し共通の話題があったのにと思いながらバスを待った。
私が歩くはずだった道をずっとバスは走った[E:bus][E:dash]。そこは予想通りやめてよかったと思う山あいの微妙な登りが続く道のりだった。やがて宿毛湾沿いに出ると気持ちが一変する景色となる。ここは「だるま夕日」が有名らしい。それを見る機会は私にあるだろうか。
歩いて渡るはずだった松田川大橋が見えたとき、年甲斐もなく無理な計画を立てたものだと呆れた。これでは、お遍路に呼ばれて当たり前。
14㎞の道のりを30分で走るバスに揺られ、海抜2.1mにある宿毛駅に移動した。歩きだったら休憩時間を含め3~4時間かかることを考えると、歩き遍路は暇人がすることだと思わないでもない。
そういえばこの宿毛駅、特急列車が停止せず駅構内に衝突する事故が2005年にあった。あれから10年早いものです。
高知行きの青い大月号に乗車すると、月山神社への遍路道にぶら下げてあったのと同じヘンロ札が窓上部に掲示してあった。あのヘンロ札があったおかげで迷わず歩けたし、何より心強かった。
中村駅に着くとアンパンマン号が停車していた。また暇人になってアンパン号に乗ってみよ~っと。
中村駅を過ぎると、4日前に歩いた道をいとも簡単に巻き戻していく。
この拳ノ川沿いを歩いたこともはっきり覚えているだけに、この速さはむなしくもあった。
窪川駅から大月まで歩いた135㎞はあっという間に巻き戻され、ふりだしに戻った。
宿毛駅から2時間10分で高知駅に到着。今回大いに活用した青パスポートを赤に更新する。
そして高知駅に隣接する広場で、NHK大河ドラマの龍馬伝で使用したセットを見学する。パスポート提示で割引料金となる。
階段を上がったところにあるという設定だった龍馬の部屋を見る。乙女ねーやんが脱藩する龍馬の着物を繕うシーンを思い出す。土佐高知は歴史上の人物が多くて本当に興味深い。今は中浜万次郎の大河ドラマを期待している。
まっことよう来たねぇ。ゆっくり見とうせ・・・と出迎えられる。
[坂本龍馬誕生の地」という記念碑を見た頃には、すっかり暗くなっていた。
アレアレ?足が痛いのはどうなったのかな?と思うほど高知駅に出てから歩き回った。言い訳のようだけど、午前中痛かったのは確かなことで・・・・。
この日は、高知駅20:10発の夜行バス[E:bus]で名古屋に帰った。久しぶりの夜行バスを試してみたというわけ。乗り換えることなく眠っている間に自宅近くまで移動できるのが私にとっては何より便利。よく眠れたので、大げさにいえば瞬間移動。
しかし名古屋駅で下車してからの足の具合は、気が緩んだせいか最高潮に達し10歩と歩けないほどツライものだった。タクシーを拾って自宅へ。
留守中に届いた還暦祝いのプリザードフラワーが私を出迎えてくれた。赤いチャンチャンコでなく赤いバラとは粋です。
その後、足はしばらく痛かったけれど、幸いにも病院にかかることなく日にち薬で治りました。その後、山にも入りましたが大丈夫でした。
しかし、今回の還暦祝い&安産祈願の遍路旅は、いささか年寄りの冷や水だったようで反省点がないわけではありません。「思い通り歩けなかった」を体験しましたからね。
あっそうそう。「山は逃げていかない」と言う例えがありますが、我々の年代になると次の機会を待ってるうちに、びっくりするくらい体力は逃げて(落ちて)いきます。なのに、若いころのハードな山行が忘れられずジレンマに陥るのです。こういったジレンマに折り合い点を見つける時期が還暦という節目なのかなぁ~とお粗末ながら感じた次第です。
長い時間を要しましたが、私を今一度せんたくした記録は、とりあえずこれにて完成とします。お終い。