私はまだ鹿島槍ヶ岳登頂していません。なので、どんな山か想像できないのですが、先月末、その山で滑落死した男性N(31歳)について感じていることを書きます。
この数年、個人的に興味があっただけで、その彼とは知り合いではありません。
ただ去年10月、彼が山野井さんと行ったペルーの写真を見ながら、少しばかり楽しくおしゃべりしたので、その笑顔が思い出されて仕方がないのです。
彼のどこに惹かれていたのかを考えました。
多分、死を恐れない無謀さが危なかしく目が離せなかったのだと思います。彼の過激な山行は目標を達成するものだったにせよ、私のような未知の世界に憧れを持つだけの無責任な存在を思わないでもありません。サッカーでいう無観客試合であったら、彼はまだ、命を落としていなかったような気がします。
下記のような記事を見つけました。難しいことだけど臆病を重ねることだと書かれています。
冬山、それもバリエーションルートに行くには臆病では行けるはずがないです。人一倍の勇気が必要でしょう。しかしその勇気と引き換えに、命のカウントダウンを2つ飛び、3つ飛びというスピードを上げること、彼だって知っていたはず。なのに何故、ひとつしかない命をもっと大事に使わなかったのでしょう。そんな勇気なんて褒めてやれない。
山をやればやるほど死に近づく。皮肉です。
知り合いでないのに、わずかでも人となりを知った人の死が、こうも心が痛いことに驚いています。
山は優しくも冷徹でもありません。人間の営みなど無関心に存在しています。
山は人を差別しません。ベテランであろうが、素人であろうが、等しく襲いかかります。
人間の計らいなど、山から見れば無に等しいのです。
経験も努力も必要です。
しかし、それは山で生きて行けることを保障しません。
そういう山の無関心さが私を快くさせてくれるのです。
経験を積むことは、自然を理解し手なずけることではありません。
臆病を重ねることです。
しかし、なかなかそれが難しいのです。
山登りにおいて、素人より経験者が多く遭難する理由はそこにあります。
私の知っている、そして尊敬する登山家は皆、山で死んでいます。
それが何よりの証拠です。
無謀だから死んだのではありません。
死んだから無謀なのです。
(和田 城志 「剱沢幻視行」 岳人09・1月号 より)
追記: 野田賢マサル

花を終えた水栽培のヒヤシンスを土に返してやったら、返り咲きした。
ひとつの命(球根)に、2回も花を咲かせることってあるのだろうか?
