10月連休間近、徳本峠小屋のキャンセルがあったので拾いました・・・中途半端に13日だけですが。仕事の都合上連泊できず、私には難儀であることは承知の上で、以前から気になっていた霞沢岳(かすみざわ)を計画したのです。
果たしてこの霞沢小屋1泊計画、吉とでるか凶とでるか?
さて、その小屋がある徳本峠は、上高地北アルプスの発祥の地で歴史があります。
120年前の明治26年(1893)、イギリス人宣教師であり登山家のウォルターウエストン(当時27歳)が、島々から登り徳本峠から見た日本アルプスを世に広めたことから、この峠は有名になりました。『徳本』と書いて『とくごう』と読みます。
今では釜トンネルを通るバスで簡単に上高地入りできますが、当時は徳本峠越えしかありません。『日本山岳会』を結成した小島烏水や『日本風景論』を出版した志賀重昂、高村光太郎・智恵子親子、芥川龍之介などが訪れています。
現在では、日本山岳会信濃支部が毎年6月第1日曜日のウエストン祭に合わせ『島々~徳本峠~上高地』という強行軍を行いウエストンを讃えています 。
では、いつ頃から上高地入りのバスができたのか気になります。
[E:book]
大正4年(1915)に焼岳が噴火。大正池を利用して水力発電の計画がもちあがる。
大正15年(1926)に釜トンネル(手掘り)を着手。
昭和2年(1927)に完成し、
昭和8年(1933)には乗合バスが大正池まで運行開始。
昭和10年(1935)には河童橋まで運行できるようになる。
焼岳噴火後の計画で、まずは大正池までバスが通るようになったのですね。それはウエストンが上高地に入ってから40年後だったこと、そしてその40年の間に先に書いた著名人たちが徳本峠を越えたことなどから、近代登山が急速に広まったようです。そのハシクレが私ということでしょう。
今回霞沢岳山行記を書くにあたって初めて知ったことなどを簡単に記しておきました。
2000年10月、当時の私に徳本峠の知識がどれほどあったのか覚えてませんが、涸沢紅葉ツアーの帰りの自由行動で、私はこっそり上高地から徳本峠を訪れました。それが上の写真です。限られた時間でのピストンだったので、峠についた途端へたり込んだ記憶です。13年前は北アルプスをほとんど知らない私でしたが、峠から見た穂高の大きさにはそれはそれは感動したものです。今でも足しげく北アルプスに通うのは、その時の感動が今なお脳裏に残っているからでしょう。

その後、2004年6月には上高地~徳本峠~島々を山仲間と歩きました。上の写真は岩魚留小屋です。これも白黒にしたかったのですがうまくいきません。
今回調べて知ったことなのですが下記のような文章がありました。
[E:book]
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波打つ深山の桂の木。(智恵子)
十月一日に一山挙つて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。(光太郎)
岩魚留小屋の桂の大木
桂の木とは、岩魚留小屋付近の桂の大木のことと思われる。いまでもその姿は変わることなく見ることができる。
1932年の自殺未遂の時、智恵子はその遺書の中に、楽しかった上高地の思い出を書いた。(徳本峠小屋HPから抜粋)
今回3回目の徳本峠も上高地からなので、次回こそは島々からウエストンの足跡をたどり、先に書いた桂の木を見たいものです。紅葉の時期がよさそうに思います。
まだ霞沢山行記にとりかかっていないのに、次回の徳本峠のことを書いているのは変でした。
さてさて今回の霞沢山行は、前回9月の前穂山行のとき、沢渡駐車場が満車だったので、12日夕方に名古屋を発ち、沢渡で車中泊としました。
10月12日の深夜12時に沢渡に着きました。谷あいには月明かりはなく満天の星空でした。

