この旅の目的は? その5

この意味深なタイトルがダラダラと続くので、せっかちな愛読者から「目的は何なの?」と質問されましたが、その答えを知っている人も知らない人も、まぁ~のんびりお付き合い下さい。[E:bleah] [E:happy01] [E:smile] 

 
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さて、野島崎灯台を後にして房総半島を左回りに房総フラワーライン』を走る。 どこまでも続く菜の花の黄色が目に鮮やか穏やかな春の日だった。 左手には雄大な 太平洋。 こころ癒されるドライブ[E:car][E:dash]となる

 

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道なりに走ると次第に車は北上する。 東京湾を左に見ながら次なる目的地の「乾坤山・日本」を目指す。国名を冠する寺だけに 、きっと由緒あるに違いないと事前に調べてみると・・・・

 

今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(725年)6月8日に開山されました。

 

夏目漱石が「木屑録ぼくせつろく」に、日本寺を訪れた際の様子を記しており、漱石と交流のあった正岡子規は後日、漱石とは逆ルートで鋸山を訪れ、この旅を「かくれみの」で著している

 

鋸山(のこぎりやま)の南側斜面10万坪余りを境内としており、豊かな自然の中を散策できる

 

 

以上の日本寺のホームページを見て 私は行く気満々になったというわけ 
 
 

富浦ICから館山自動車道戻るかたちで北上し、鋸南きょなん保田ICで降りる。そして  日本寺の案内板に従って走り無料駐車場に車を止め。(他にロープウェイや有料道路で上がる方法、さらに登山道もあり)

 

 
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拝観料600円。日本寺の境内に上がると梅見頃でスイセンも品よく咲いてい。よくお手入れされたお庭を眺めながら気分よく 階段を登ると、誰かに呼ばれたような感じが。ふと右手に目を向けると・・・・・

 

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広場の奥にそれはそれは大きな大仏が鎮座していた。 

総高31m・座高21m。奈良東大寺の大仏の像高が16mというから、この大仏がいかに大きいかがわかる。(先に行った野島崎灯台の高さとほぼ同じ高さ)

 

吸いこまれるように大仏に寄ると手に薬壺を持っておられた。 薬師如来だ。 正式には薬師瑠璃光如来というらしが、ふと岩手の友達の娘さんが数日前に33歳の若さで 脳梗塞を患い緊急入院しことを思い出す。

  おんころころ せんだりまとうぎそわか」、なぜかのご真言が思い浮かんだので私はとりあえず唱えたそして 「病気平癒をお祈りしたから安心して」と大仏の画像を添付したメール岩手に送った。後日談:その娘さんは処置が早くて大事に至らなかったとか。あのご真言でもご利益があったようだ。

 

 

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天明3年に大仏が完成し、江戸時代末期ころから荒廃にまかされたままで 昭和44年に現在のお姿に再現されたと書かれている。

 

おさらいしてみると、
 2年( 725年)行基が入山
天明 3年(
1783年)に大仏が完成
江戸末期
頃から荒廃の一途 (江戸時代1586~1911年)
昭和44年(1969年)に大仏再現

 

さらに調べてみると、大仏完成して100年後の明治22年(1889年)に漱石23歳は日本寺を訪れそのときの様子を漢文紀行木屑録残している。名刹寺が 荒廃していることを嘆き悲しむ気持ち(3枚目の写真)が読むほどに伝わる の漢文紀行を読んで感動した 子規は、その後日本寺を訪ねたという話はうなずける。
 

勅願寺と言えども廃仏毀釈から免れることはできなかったであろうし 第二次世界大戦では、ここ鋸山(のこぎりやま)を要塞にしたというのだから、漱石や子規たちが見た荒廃は さらに進んだはず。 なのに平和な今日があるのは、この大仏姿をした薬師瑠璃如来多くの人祈りが届いたからかもしれないなんて思う 

 

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鎌倉のような大仏ではなく 、ここのものは岩山から掘り出された磨崖仏だった。  高校の修学旅行で国東半島(大分県)の臼杵石仏磨崖仏)を見学したけれど、 こういう一見独立しているように見える磨崖仏を見るのは初めてである。

 しかし 昭和44年に再現され立派になったとしても、当時これを掘り出したことを考えると本当に凄いなと感心しきりの私だった。

 

てこの先は、鋸山の山頂まで日本最高という2639段もの階段を登ります[E:run] [E:run] 

それはまた次回。

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