伊藤博文別宅・旧宅から数分で松蔭神社へ。失礼のないように、鳥居から少し離れたところに自転車を止める。
実は昨日、津和野から東萩駅に向かうバスは松蔭神社の前を通った。アレ!最後の楽しみの地を先に見せられた!と残念に感じたけれど、見てしまったものは仕方がない。すかさずまわりの位置関係を把握した。ということで迷うことなく境内に進む。
大きな絵馬があった。神社の方に尋ねると、右が吉田松蔭で、左は山田顕義ヤマダアキヨシとおっしゃる。??聞いたことがない名前だった。松蔭の門下生だったらしい。ちなみに山田顕義は辰年生まれなので今年の絵馬に描かれたとか。久坂や高杉は私でも知っているが、教科書に載っていない人(載ってるのかな?)もこうやって順番に紹介されることはいいことですね。
さて、幕末の志士の師である松蔭の話題に
親思ふこころにまさる親ごごろ けふの音づれ何ときくらん 寅次郎
松陰が家族に宛てた遺書の中で詠われた有名な句である。自分が処刑されたという知らせを親はどんな気持ちで聞くだろうか、という松陰の両親へのいたわりが溢れている。寅次郎は松蔭の幼名。
私が子供の頃、親がこの句を諳んじては、こうこうこうだとよく聞かされた。本家本元の松蔭神社でこの句を見て、親の言わんとしたかったことが理解できたような気がした。今日の音づれ何ときくらん・・・は、心を打つものだった。
時代の先を行く松蔭の思想が受け継がれた松下村塾。教室だった部屋を覗くと、ここの門下生らの写真が飾ってある。歴史上有名な人ばかりだった。藩校明倫館と違って、身分の隔てなく塾生を受け入れたらしい。
27歳の松蔭がこの小さな建物で教えを説いたのは実質2年半だと説明書きにある。その短い期間に、明治維新前後に活躍する人をたくさん輩出したとは驚きである。
その一室に松蔭が幽囚された部屋が公開されていた。松蔭25歳のときペリー軍艦に密航したことがバレて囚われの身になったが、のち国に返され幽囚生活を送りながら松下村塾で志士たちの育成をしたそうだ。こういう背景があったことを初めて知る。
今日の音づれ何ときくらん・・・の安政の大獄で松蔭は命を落とす。30歳。久坂玄瑞や高杉晋作なども明治維新を前に若くして命を落とした。生き残った木戸孝允、伊藤博文、山県有朋らは、松蔭の思想を受け継ぎ明治維新を成し遂げた。
松蔭の功績に手を合わす。隣に門下生の神社もあった。30歳前後の道半ばで死んでいった志士たちを思って手を合わせた。
長州藩の久坂と土佐藩の竜馬が熱く語り合ったとも言われているこの地に立ち、日本人として想像以上にワクワクした。何十年も前に学校で習ったことを自分の目で確かめられる大人の社会見学は、また違った発見がたくさんあって勉強になった。
まだまだ見学したかったが、そうゆっくりも出来ないので松蔭神社を後にして、浜崎地区へ移動した。
P.S.家に帰ってからネットでよく調べたら松蔭神社内にある宝物殿「至誠館」は、是非寄りたかったところだとわかる。あぁぁ~もう行く機会はないだけに惜しいことした。